人生の後半に入り、改めて恋愛やパートナーシップについて考える機会が増えていませんか。子育てが一段落して、ようやく夫婦二人の時間が戻ってきた。あるいは、配偶者を亡くされて新しい出会いを探している。そんな人生の節目だからこそ、お伝えしたい大切なことがあります。
それは「溺愛」と「深い愛情」の違いについてです。
今日は、人生経験豊富なシニア世代の皆さんに向けて、溺愛が時に関係を壊してしまう理由と、健全なパートナーシップを築くための心構えについてお話しさせていただきます。
溺愛とは何が違うのか
まず、溺愛と深い愛情の違いについて考えてみましょう。
深い愛情とは、相手を尊重し、相手の幸せを願いながらも、自分自身の人生も大切にする。そんなバランスの取れた関係です。一方、溺愛は相手への執着が強すぎて、相手の自由を奪ったり、自分自身を犠牲にしすぎたりする状態を指します。
60代、70代になると、長年連れ添った配偶者との関係に新たな変化が訪れることがあります。定年退職して家にいる時間が増えた夫が、突然妻のスケジュールを気にし始める。あるいは、子どもたちが独立して寂しくなった妻が、夫の行動を細かくチェックするようになる。
こうした変化は、一見「相手を大切に思っている」ように見えますが、実は溺愛や依存の兆候かもしれません。
ある70代の女性の話です。彼女の夫は定年退職後、それまで仕事人間だった反動からか、彼女に対して過度に気遣うようになりました。彼女が友人とランチに行くと言えば「何時に帰る?」「誰と会うの?」と細かく聞き、少しでも帰りが遅くなると心配して何度も電話をかけてくる。
最初は「私のことを心配してくれているのね」と嬉しく感じていたそうです。でも、次第にそれが重荷になっていきました。友人との約束も気が重くなり、自分の趣味の時間も罪悪感を感じるようになってしまったのです。
彼女は夫を愛していました。でも、夫の過剰な気遣いが息苦しく感じられて、ある日「もう少し私を信じて、自由にさせてほしい」と涙ながらに伝えたそうです。
その時の夫の驚いた表情を、彼女は今でも忘れられないと言います。夫は「愛しているから心配なんだ」と言いましたが、彼女にとってはそれが愛ではなく、束縛に感じられていたのです。
溺愛が生まれる心理的背景
なぜ、人は溺愛してしまうのでしょうか。特にシニア世代において、溺愛が生まれやすい背景にはいくつかの要因があります。
まず、孤独への恐怖です。子どもが独立し、仕事も引退し、社会との接点が減っていく。そんな中で、パートナーが唯一の心の拠り所になってしまうことがあります。「この人がいなくなったら、自分は一人ぼっちになってしまう」という不安が、過度な執着を生み出すのです。
次に、自己価値を相手に依存してしまうケースです。「相手の幸せこそが自分の価値」と感じてしまい、相手の望みに過剰に応えようとする。相手が喜んでくれなければ、自分には価値がないと感じてしまう。そんな心理状態です。
ある80代の男性の話を聞いたことがあります。奥様を3年前に亡くし、寂しさから婚活を始めたそうです。そして、素敵な女性と出会い、交際を始めました。
彼は彼女のために、できる限りのことをしようと思いました。毎日電話をし、毎週会い、彼女の好きなものを贈り続けました。彼女が少しでも体調を崩せば、すぐに駆けつけて世話を焼く。彼女の一言一言に過剰に反応し、機嫌を損ねないように常に気を配っていました。
彼の心の中には、「また一人になってしまうのではないか」という恐怖がありました。長年連れ添った妻を亡くした寂しさ、孤独感。それを埋めるために、新しいパートナーに必死にしがみついていたのです。
でも、彼女の方は次第にプレッシャーを感じるようになりました。「こんなに尽くされると、断りにくい」「自分も同じくらい返さなければいけない気がして疲れる」と感じるようになったのです。
結局、彼女は優しく、でもはっきりと「もう少しゆっくりとした関係を築きたい」と伝えました。男性は深く傷つきましたが、後になって、自分の愛情の示し方が間違っていたことに気づいたそうです。
ここで、少し心温まる話を一つ。
昔、ある老夫婦が金婚式を迎えた時のことです。お孫さんが「おじいちゃんとおばあちゃんは、50年も一緒にいてよく喧嘩にならないね」と聞いたそうです。すると、おじいちゃんはこう答えました。
「喧嘩はするよ。でもね、おばあちゃんには『庭の手入れ』という大好きな時間があって、私には『将棋仲間との集まり』という楽しみがある。お互い、一人の時間を大切にしているから、また一緒にいる時間が嬉しいんだよ」
この言葉に、老夫婦の関係の秘訣が隠れています。相手を大切にしながらも、自分自身の時間と趣味を持つ。それが、長続きする関係の鍵なのです。
束縛と不安のサイクル
溺愛が悪い方向に進むと、束縛と不安のサイクルに陥ってしまいます。
相手のことが気になって仕方がない。どこに行くのか、誰と会うのか、何時に帰るのか。そうした情報を常に把握していないと不安になる。こうした行動は、一見すると「心配している」ように見えますが、実際には相手を信頼していない証拠でもあります。
友人の女性で、再婚した70代の方がいます。彼女の新しい夫は、最初はとても優しく紳士的でした。でも、一緒に暮らし始めてから、次第に変わっていったそうです。
彼女が友人と出かけると言えば、「俺は行かなくていいのか」と不機嫌になる。趣味の習い事に行くと言えば、「俺より習い事の方が大事なのか」と拗ねる。娘や孫と会う約束をすると、「俺のことは放っておいていいのか」と寂しそうな顔をする。
彼女は困惑しました。自分の人生を楽しんでいるだけなのに、なぜ夫は不機嫌になるのか。最初は夫の気持ちに配慮して、出かける回数を減らしたりしました。でも、それで夫が満足することはありませんでした。むしろ、もっと彼女に依存するようになっていったのです。
ある日、彼女は思い切って夫と向き合いました。「私はあなたを愛しているけれど、私には私の人生がある。友人も、趣味も、家族との時間も、すべて大切なの」と。
その時の会話は簡単ではありませんでした。夫は傷ついた表情を浮かべ、「俺のことは大切じゃないのか」と言いました。でも彼女は、優しく、でもはっきりと伝え続けました。「あなたはとても大切。でも、すべてではない。私には私の人生がある」と。
時間はかかりましたが、夫も少しずつ理解してくれるようになったそうです。今では、お互いに自分の時間を持ちながら、一緒にいる時間を心から楽しめる関係になったと話してくれました。
過剰な世話焼きという愛の形
溺愛のもう一つの形として、過剰な世話焼きがあります。
相手のことを何でもしてあげたい。相手が困る前に先回りして助けてあげたい。そんな気持ちは素晴らしいことです。でも、それが度を越すと、相手の自立を奪ってしまうことがあります。
ある60代の男性の話です。彼の妻は、彼に対して本当によく尽くしてくれました。毎日三食手作りの食事を用意し、服の準備から健康管理まで、すべて妻が管理していました。
男性は最初、「妻が自分のことを大切にしてくれている」と感謝していました。でも、次第に違和感を覚えるようになったそうです。
自分で服を選ぼうとすると、「それは今日の予定に合わないわ」と妻が別の服を持ってくる。友人と外食の約束をすると、「外の食事は体に悪いから家で食べなさい」と引き止められる。趣味のゴルフに行こうとすると、「あなたの年齢で無理をしたら危ないわ」と心配される。
妻の心配は本物でした。愛する夫の健康を心から案じていたのです。でも、男性は次第に「自分は子どもじゃない」と感じるようになりました。自分で判断する機会を奪われ、常に管理されているような気分になったのです。
ある日、彼は穏やかに、でもはっきりと妻に伝えました。「君の気持ちは嬉しい。でも、僕は自分のことを自分で決めたい。もう少し信じてほしい」と。
妻は最初、傷ついた様子でした。「私はあなたのためを思って」と涙を浮かべました。でも、話し合いを重ねるうちに、妻も気づいたそうです。自分の「世話をする」という行為が、実は夫への信頼の欠如だったことに。そして、自分自身が夫に依存していたことに。
今では、妻も自分の趣味や友人との時間を大切にするようになり、夫も自分のペースで生活できるようになったそうです。お互いを信頼し、尊重し合える関係に変わっていきました。
理想化という落とし穴
溺愛には、もう一つ特徴的な側面があります。それは「相手を理想化しすぎる」ということです。
「あなたのすることは何でも素晴らしい」「あなたは完璧だ」「あなたの欠点すら愛しい」。こうした言葉は、一見するとロマンティックに聞こえます。でも、過度な理想化は、相手にプレッシャーを与えてしまうのです。
再婚したある女性の話を聞きました。彼女のパートナーは、彼女を「女神のような存在」と表現し、何をしても褒め、何を言っても肯定していました。
最初は嬉しかったそうです。前の結婚では、夫から認められることが少なく、自信を失っていました。だから、新しいパートナーの言葉が心地よく感じられました。
でも、次第に息苦しさを感じるようになったのです。「完璧でいなければいけない」というプレッシャー。弱音を吐けない窮屈さ。機嫌が悪い時も笑顔でいなければいけない義務感。
ある日、彼女は疲れ果てて、パートナーに本音を話しました。「私は完璧じゃない。時には疲れるし、イライラもするし、弱音も吐きたい。ありのままの私を見てほしい」と。
パートナーは驚いたようでした。でも、話し合いを通じて、彼も気づいたそうです。自分が彼女を理想化することで、逆に彼女を苦しめていたことに。そして、自分自身も「完璧なパートナーであり続けなければ」というプレッシャーを感じていたことに。
今では、お互いの弱さも見せ合える、もっと自然な関係になったと話してくれました。
健全な愛情との違いを知る
では、健全な愛情とは何でしょうか。
健全な愛情とは、相手を尊重し、相手の自由を認め、お互いに自立した状態で支え合う関係です。一緒にいることを強制するのではなく、一緒にいることを選び合う関係。相手がいなくても自分の人生を楽しめるけれど、相手がいることでより豊かになる。そんな関係です。
シニア世代だからこそ、この違いを理解することが大切です。長い人生を生きてきた私たちには、若い頃とは違った成熟した愛の形があるはずです。
お互いの人生経験を尊重し、お互いの趣味や友人関係を大切にし、お互いに自分の時間を持つ。そして、一緒にいる時間を心から楽しむ。そんな関係こそが、シニア世代にふさわしい愛の形ではないでしょうか。
ある80代のご夫婦の話が印象的でした。二人は60年以上連れ添っていますが、今でも週に一度は別々に過ごす日を設けているそうです。
夫は仲間と将棋を指しに行き、妻は友人と美術館に行く。そして、夜に家で再会すると、お互いの一日の話を楽しそうに語り合う。
「離れている時間があるから、また会えることが嬉しいんだよ」と夫は笑顔で話してくれました。妻も「お互いに別の世界を持っているから、話が尽きないのよ」と付け加えました。
この夫婦の関係には、溺愛はありません。でも、深い愛情と尊重があります。それこそが、長く続く関係の秘訣なのです。
今日から始められること
では、もし自分が溺愛の傾向があると気づいたら、あるいはパートナーから溺愛されていると感じたら、どうすればいいのでしょうか。
まず、自分自身の人生を充実させることです。パートナー以外にも、趣味や友人、興味のあることを持つ。一人でいる時間も楽しめるようになる。そうすることで、パートナーへの依存が減り、より健全な関係を築けます。
シニア世代には、たくさんの選択肢があります。地域のサークル活動、ボランティア、習い事、旅行、読書。自分が心から楽しめることを見つけて、それに時間を使いましょう。
次に、パートナーとの距離感について話し合うことです。お互いにどのくらいの距離感が心地よいのか、正直に伝え合う。週に何回会うのがちょうどいいか、毎日連絡を取り合うのか、それとも数日に一度でいいのか。こうしたことを率直に話し合いましょう。
そして、相手を信頼することです。相手が友人と過ごす時間を認める。相手の趣味を尊重する。細かくチェックしたり、心配しすぎたりせず、相手を一人の大人として信頼する。それが、健全な関係の基礎です。
もし、パートナーが過度に束縛してくる場合は、優しく、でもはっきりと自分の気持ちを伝えることが大切です。相手を責めるのではなく、「私はこう感じている」という形で伝えましょう。
そして、必要であれば、カウンセリングなどの専門家の助けを借りることも検討してください。長年の習慣や考え方を変えるのは、一人では難しいこともあります。